大江千里(Senri Oe) - ジャズピアニスト

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自分の好きな美学を追究するために残りの人生を使い切りたい。

 
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大江千里(Senri Oe) - ジャズピアニスト

夢を追いかけるのに遅いということはないのかもしれない。 47歳で突如これまでの活動を休止し、2008年に夢だったジャズピアニストを目指し、単身ニューヨークへ飛び出した千里さん。 2012年にはついに4年間の学校生活を経て、念願だったジャズピアニストとして全米デビュー。早速ニューヨークに新レーベルを立ち上げ、同7月にジャズピアニストとしてのデビュー作「Boys Mature Slow」を全米発売。 日本の知名度なんて全く通用しない、”本物”の世界で早速雑誌の取材もきた。 元々1983年にシンガーソングライターとしてデビュー。2007年末までに45枚のシングルと18枚のオリジナルアルバムを発表。 作詞・作曲・編曲家としても、松田聖子・光GENJI・渡辺美里、優木まおみらアーティストに楽曲提供やプロデュースも手がけた。 活躍は音楽活動に留まらず、俳優として多くの映画やドラマ、テレビ番組の司会、ラジオ番組のパーソナリティー、エッセイなど、幅広い分野で活躍を続けてきた。 渡米寸前の2007年には映画の主演まで果たし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった千里さん。 そんな千里さんが、たくさんの大きな仕事を断ってまで単身ニューヨークへ飛び出した。 その原動力は何だったのか、真相にせまった。


対談者:Dragon

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ある団体の実行委員として千里さんと渡辺美里さんのコンサートをサポート。それから、改めて時間をいただき、ブルックリンのタイ料理を食べにいったときに、47歳からの壮絶なチャレンジを聞き、溜まり場にはいってください、とお願い。快く引き受けて頂く。

 

16歳ジャズに興味を持つ

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― 昔からアーティストを目指されてたんですか?
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絵を描く事や作曲すること、

とにかく「創る」ことが好きでした。

それが気がついたら「音楽」の道へ。

 

アーテイストになろうと

思ったことは一度もないです。

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― いつでも笑顔で楽しそうですよね!
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そんなことはないですよ。

むしろ人生つらいことのほうが

多いなと思う事のほうが多いです。

 

でもだからこそ、そこを掘り下げて行くと、

明るい前向きの曲がうまれたりするんですね。

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― では楽曲提供されるときはどういうふうに創られるんですか?
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提供させて頂く相手のかたによります。

ただその方になるだけ

いつも寄り添うような感覚で

書くようにはしています。

 

松田聖子さんの歌のときなんかは

彼女が歌ってありだと思う

フレーズや転調感など、一瞬たりとて

彼女じゃない節にならないように

気をつけつつむちゃくちゃ

聖子節に集中しました。

 

光ゲンジの「太陽がいっぱい」などは、

ローラースケートを履いて滑りながら

テレビの画面からこちらへ

自分のことをさらいに来てくれるんじゃないか、

と錯覚できるようにってのがコンセプトです。

 

一瞬たりとてあたしのことを

思ってくれてない時間はない

ていうような感覚ですか。

面白い事に、

役者の仕事なんかを頂いた時も

全て音符や節で台詞を覚えるんですよ。

 

すぐに演じようとしちゃうんで、

「え?」でも下のミの音あたりで、とか。

少し上のラの音で上から下がるかんじとか、、、。

 

あとはどうしてもお医者さんとか

先生とか世間が思う大江千里

っぽい役が続いたりすると、

役作りが似通ってしまうので、

これを菅原文太さんがやると、とか、

浜ちゃんがやると、とか、

 

具体的にものまねするような感覚で

入るとすぽっと役の台詞が

頭に入ったりしてましたね。

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― 将来またJ-popをやられる予定はありますか?  
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わかりません。

 

好きなんで自然とフレーズは

でてきちゃうと思います。
最近日本から少しづつ依頼が

来始めてます。中には「もろ80sの千里節を」

ていうような超具体的なものもあって、

逆に楽しいかなと思って

 

挑戦していこうと思ってます。

47歳ニューヨークへジャズ 留学

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― ジャズ留学に踏み切られたきっかけはなんだったんですか?
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90年代に一度NYに住んだ事があって、

挫折というか、一度やはり

日本に戻ってしっかりとやろうと思い

NYのアパートを引き払って

帰ったんですね。

 

だから、どこかでずっと

引っかかっているものはありました。

 

40代半ばに母や親友たちが

立て続けに亡くなったというのもあって、

人生は限られた時間なんだ、

本当にやりたいことを

やり残しちゃいけないんじゃないか

と少しずつ考えるようになりました。

 

 

ジャズは10代の頃から好きだったんですね。

だけどポップの仕事も

競争の激しい厳しい世界なので、

なんちゃってでジャズをやりながら

ポップのキャリアをやるっていうのは

できなかったんですね。

 

だけど年齢を重ねて

自分でレーベルを作ったりして、

いいかんじのペースでやりたいことが

やれるようになってきて、

ジャジーなものとか

少しずつやり始めたんです。

 

そうすればそうしたで、今度は

半端なまま「なんちゃって」で

ジャジーなものをやっているのが

苦しくなる。

 

もっとこの解けない

「ジャズの謎」を本気で学びたいと

思うようになりました。

 

これが45、6歳ですかね。

その1年後くらいにものすごく仕事が

いいかんじで乗って来たので、

自分の人生の第一章を

くくるんだったら今だ!

って感覚的に思ったんですね。

 

だから死にものぐるいでやりました。

50歳まで区切りよくやって、

そのあとでも?って思う

気持ちもあったんですが、

どこかで

「いや、それだともう遅いのでは。

今感じるチカチカしてるアラートを

見過ごしちゃもうこのチャンスはこないん

じゃあないだろうか」と。

 

それでニュースクールを受けました。

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― なんで音楽活動を止めるの?って声もありました?
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レコード会社の長い事一緒に

仕事をしてきた仲間は心配して、

ファンクラブを残したほうが

いいのではないかとか、

やれる仕事はやりながらでも

ジャズの勉強はできるのでは

という案を出してくれたのですが、

 

僕にはそれだと逃げ道を残す事に

なるなと思ったんです。

 

日本でポップのキャリアを続けている時も

ジャズを学ぶチャンスはあったわけだし、

でもその時間があったら

更にポップスのいい曲を

もっと書きたいと本気で思っていたし、

 

だからジャズを学ぶならば、

それは自分の人生の第二章を

開く意識でやらないとものにならない

んじゃないかと思ったわけです。

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― それだけ日本での仕事が順調だったんですね!
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30代の頃は迷いがありました。

やってもやっても自分の音楽が

正当に評価されてないなんて

若さゆえに思ったりもしたものです。

 

日本のポップスが聴く側も

提供する側も10代に向けてというのが

どっかにあるんですね。

 

だから20代はまだ10代の延長戦でいい。

しかし30代くらいになってくると、

そのごどっちの方向にシフトしていくのか

非常にむつかしい時期に入るんでしょうね。

 

ただ、結婚や孤独、諸行無常などの

テーマをほんの少しラブソング

に織り交ぜて自分なりにその先につながる

世界を挑戦してはいたのです。

 

ただ、40代になってから、

突然、それまでやってきたこと

が積もり積もって、

 

ある日「ポップスは10代のものだ」

と気づいた瞬間があったんです。

10代だけが聞くものという意味ではなくて、

「誰もの心の中にあるエバーグリーンな」

という意味での「10代のものだ」ですね。

 

そしたら、ちょうどジャズをやるのなら、

一旦、好きだからこそ離れてみる

というのも大切かもしれない

というような発想も心の隅にありました。

52歳ジャズピアニストとしてデビューアルバム発売

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― 念願のデビューをなされてどんなお気持ちですか?
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アメリカのジャズの雑誌とかに

取り上げられたりして、

いいのかなって思いつつも、

それは正直よろこびもあります。

 

やはりジャズに全身全霊を込めて

4年半やって来たわけですから。

それともうひとつ、

日本を背にしてしまったという

気持ちがあったので、

昨年の秋に東京ジャズで帰れた時は

ほんとうに感動しました。

 

僕の日本でのキャリアに関わった

歴代のマネージャーなんかが

ほぼ全員バックステージに揃ってました(笑)

留学する時も彼らは

反対しなかったんだよね。

ただ静かに僕の言葉を

聞いて何も言わずに送り出してくれた

というかんじでした。

 

それだけに、東京ジャズや

東京ブルーノートの演奏が終わったあとは、

ああ、帰って来たんだって

いう思いがひしひしと

実感できました。

52歳ジャズの学校The New School for Jazz and Contemporary Musicを卒業

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― ジャズもそうですが英語も0からの挑戦だったんですよね?
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ゼロではなかったとは思いますが、

最初は緊張もあって

耳が閉じちゃったりして

何度も聞き返す事が多かったです。

 

僕は日本で長い事大きな音の中で

ツアーを何度も何度も行ったせいか、

すこし難聴気味なのと、

アメリカに来てから老眼が始まったので、

会話や授業は大変でした。

 

でも、途中で気がついたのは、

おそらくこちら(アメリカ)で生まれて

純粋なJapanese Americanでない限り、

ほとんどの人がなまっているわけですから、

なにも上手な英語を話そうとか、

ネイテイブみたいに話そうとか

しなくてもいいわけです。

 

それよりも、

他人に興味を感じてもらえるような

トピックス、内容のあることを、

自分にしかないような

言葉の組み合わせと構成の仕方で

喋るようにしようと心がけました。

 

この頃、ESLをあとひとつ

とらなきゃいけなかったのですが、

なんだかそれって時間の無駄だなあと

思って悩んでいると、

その代わりにポエムの授業をとればいい

というアドバイスを学校側からもらい、

そのクラスに参加したんですね。

 

そしたらそこで、僕の英語で書く短い

ポエムがちょっとしたブームになったんです。

色んな国(アメリカも含めて)の人が

自分のポエムを車座になって読む。

 

みんなそれぞれの味があるし、

お国柄もあるし、バックグラウンドに

戦争や社会的な要素が

関わってきたりもするし、

言葉ってTOEICとか

そういうのだけじゃ計れない

もっとなんていうのかな、

そのときそのとき毎秒変化している、

感覚的な側面があるなという

印象を持ちました。

 

アメリカの中に薄ーく入ったなと

感じたのはこのときが初めてです。

音楽の方も、学校じゃ若くて上手な

クラスメートが山ほどいる。

 

でも思いを、自分の言葉という武器で

伝えるというふうに考えると、

うまい、上手、というのは大切だけれど、

それよりももっと磨かなければいけない

大事なことがある、と思ったんです。

 

そのとき、

ぱかっとなにかが自分の中で割れました。

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― 確かに日本人は上手に話せないと恥ずかしいと思う傾向がありますよね  
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そうですね。

完璧に話そう、間違えたら笑われるって

思いすぎてる面があるかもしれないですね。

でも自分の経験でおもしろいことがあります。

僕自身ライブのmcの途中なんかで

英語の表現に迷うときがありますよね。

そんなときにはアメリカ人の

お客さんの目を真剣に見つめて、

その人がほんとに今僕が話している事を

理解しているかどうかをいちいち確認しながら

しゃべるようにするんですね。

 

そうすると日本人独特の

まわりを気にするとかいうことを忘れ、

気がついたら自分がサバイブするための

英語を自分なりのテンポで

話しているのです。

 

大事なのはハートで、

どの世界に行っても、

たまに意地の悪い人はいるけれど、

でもほとんど人は真剣に心を込めて

とつとつと話す人に耳を傾けると思います。

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― ポップスの時はとても歌詞にこだわられたようですが、歌詞のないインストのジャズをやろうと思われたのはなぜですか?
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さっきも話したように、

英語を母国語じゃなく話し歌うっていう

ことは並大抵の努力じゃネイテイブを

振り向かせるのはむつかしいと思うんですね。

 

だったら振り向かせるような曲を

書いたほうが僕の場合はいいんじゃないか。

僕はピアノのインストの曲を書きますが、

全てのメロデイに歌詞があると、

言葉が乗っているというふうに思ってます。

 

メロデイとメロデイの間にも行間があり、

それをあぶりだすように

弾けるようになりたいです。

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― 50ではなく48歳から来られてよかったと思いますか?  
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はい。

こっちにきてから

すぐに老眼になりましたし、

暗記力にも低下を感じます。

 

ピアノも頑張って練習をしすぎると

肩を壊したりします。

元々、やるだけやったら結果は出るって

いうタイプですから、

このやりたくても全力で

やれない悔しさはあります。

 

だけど、こんな自分だからこそ、

老眼によって別の大事な目が開く、

ものごとが見えるようになる。

 

そして、決してみんなが驚嘆の声を

あげるような高い跳び箱は飛べなくても、

たとえ低くても、着地が

世界一独特で美しくあればいい、

そういう美学を持つようにしています。

 

52歳新しいバンド結成

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― 仲間をみつけるのって大変ですよね?
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そうです。

東京でもあんなに人に

囲まれているように見えていても、

実はほんとの仲間というのは

限られていたのです。

 

NYだと言葉の

壁もありもっと大変です。

だから僕は学校に行ったことは非常に

よかったと思ってます。

 

今は自分が興味のある人には

直接メールをするようにしています。

それで一緒に演奏できることもあれば、

ない場合もある。でもめげたりしません。

 

このまえベネズエラ系や

イスラエル系のホーンズとともに

レコーデイングする機会を持ったのですが、

緊張しましたが楽しかったですね。

もちろんエンジニアや

他のミュージシャンに純粋なアメリカ人、

アフロ系のアメリカ人もいて、演奏を通じて、

スタジオの緊張が徐々に溶けて、

一気に会話ができるんですね。

 

こうやって人と会っていく。

会話をしていく。

 

人との関係は

「去っていく人がいれば出会える人がいる」

だと思っています。

一人の時は「考えるとき、準備のとき」

だと思っています。

 

あまりこうじゃなきゃいけない、

って思わずに人との関係を

波で捉えるようにしています。

 

野望『シンプルでありなが味わい深いソロを弾くことが目標です』

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― 目標を教えてください
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このまえ出したアルバムは、

日本のポップを極めたアーティストが

全てを捨ててアメリカでゼロから

ジャズを学んで作ったデビュー作、

っていう評価でした。

 

でもそんな中でも、

僕のピアニストとしての個性、

作曲家としても特異性を

評価してくれるレビューが幾つかありました。

ぼくの次の目標は、

こういう時代だからこそ、

どこの国の人だからとかいうことじゃなくて、

僕のアルバムを聴いたら、

僕のパフォーマンスを見たら、

しあわせな気持ちになったり、

忘れかけてた恋する気持ちを思い出したり、

そんなふうになってもらえたものを、

編み出していきたいです。

 

具体的には最終的にはソロですが、

いまはいろんなスタイル、

編成のものをのろのろではありますが

書いている途中です。

学校は卒業しましたが、

勉強は実地で山ほどあります。

それを毎日作りながらやっているわけです。

作るということは

聴くということでもあるわけなので、

少し難聴気味でも、モノを聞き分けられる

いい耳をもっともっと磨いていきたいです。

 

あとは唯一の被爆国の人間であり

父も長崎で被爆していますので、
「平和」に対する思いが強くあります。

 

地球上では依然として大きな

争いが続いているし、

身近なところでもいさかい

は起こってます。

 

世界中にひとりとして

同じ人はいないわけで、

みな考え方や信じるものが

違うわけです。だから争いが起こる。

僕は、音楽は、考え方や宗教や

バックグラウンドの違う人の心の

壁を崩す力をもっていると

信じているのです。

強い信念を持って、

平和というメッセージを

音楽に込め発信し続けたいと思います。

 

それをどこかで

受け取ってくださったかたの

共鳴が徐々に大きな輪になっていく、

というの僕の夢でもあり、

そうやって世の中に貢献できることが

僕が音楽をやっている

ひとつの大きなミッションだと

思っています。

生き方『自分の好きな美学を追究するために 残りの人生を使い切りたい。』

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― 好きなことばっかりやってきた悔い無し人生って感じですか?
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いや、好きな事ばかりやっていると

人生に悔いは残るでしょう。

好きな事をやるために

そうじゃないことを

自分のイマジネーションで

めいっぱい楽しんでやっているからこそ、

今という瞬間が逆に意味が

あるんだというのが僕の考えです。

 

たまに日本人の方にお会いすると、

「ほらほら、アイドルだった人よー」とか

「芸能人よ。ほらドラマにでてた」って

おっしゃるかたがいたりするのですが、

なんだかなあと思いながらも、

実はなんとも思いません。

 

20代の頃は女性ファンが

沢山いてくださったわけだし、

ドラマでメリーゴーラウンドに

振り回されて死ぬ役なんて

やったこともあります。

 

それこれもぜんぶ僕が本気で

やってきた人生の一部ですから。

「あんなのジャズじゃない」なんて

言われたこともあります。

 

でもそれも全く気にならないです。

そうなのかなあというかんじです。

 

それよりも僕は自分が自分の一番

「厳しい批評家」だと思っているので、

人からのレッテルよりも、

自分の美意識を裏切らない生き方、

それだけをこだわり続け、

ものを作り続けたいと思います。

将来のことは僕にもわかりませんが、

若くはありませんので

自分にはっぱをかけて1日1日を

大事に生ききる、これがテーマです。

 

贈る言葉『人は踏み出す時は 踏み出せる』

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― 夢へ踏み出したいけど、勇気が出ない、そんな日本の若者に言葉をください。
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僕は人は踏み出す時は

踏み出せると思うんです。

それよりも踏み出すってことだけが

人生ではないということ、

それをこの年になってよく思うのです。

 

夢をかなえる、

たとえば音楽家として知られる

存在になるとか、

アメリカに行って一旗あげるとか、

そんな事は、ひとつの座標での

価値観にすぎません。

それよりも1日1日を

大事に生きる感覚というのが

とても重要だと思うのです。

 

なにも東京に出なくても、

海外に行かなくても、

有名にならなくても、

自分のその場にリアリテイがある、

それに気がついている人は

なにをやってもどこへいっても

強いと思います。

今後の挑戦

  • 2013年 ベネズエラ、アメリカ人、キューバ人と新しいバンドで勝負
 

BIOGRAPHY

  • 00歳東京板橋区生まれ
  • 03歳クラシックピアノを習い始める
  • 10歳ポップスに開眼
  • 13歳自ら作詞・作曲を始める
  • 14歳初のオリジナル「さらば灰色の街」作る
  • 16歳ジャズに興味を持つ
  • 17歳ポピュラーソングコンテスト落選
  • 20歳関西学院大学に入学。軽音楽部に入る
  • 20歳アマチュアバンド"トニオ・クレイガー"結成
  • 21歳大学二回生の時にスカウト
  • 21歳最優秀アーティスト賞を獲得しプロに
  • 23歳プロとしての初ステージを踏む
  • 23歳アルバム『WAKU WAKU』で本格デビュー
  • 24歳初のホールコンサート
  • 24歳CM初出演,CM曲「十人十色」が大ヒット
  • 25歳学園祭で全国を回る
  • 27歳初めての日本武道館ライブを実現
  • 28歳ライブイベント『納涼千里天国』開始
  • 31歳『格好悪いふられ方』がオリコン2位
  • 32歳スペシャルドラマで音楽監督
  • 35歳阪神大震災。弾き語りライブ
  • 40歳個人レーベル設立
  • 42歳初のディナーショーを開催
  • 47歳ニューヨークへジャズ 留学
  • 50歳ニューヨーク本願寺でピアノ演奏
  • 51歳渡辺美里とチャリティーライブ
  • 52歳ジャズ学校卒業
  • 52歳ジャズピアニストとしてデビューアルバム
  • 52歳新しいバンド結成

大江千里(Senri Oe) - ジャズピアニスト

海外飛び出し年齢:47歳(,

ニューヨーク(在住経験地:, ,

,

ウェブサイト ・Facebook公式ブログ「千里の森」
 
 

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