Dragon - Tamariba 管理人
日本人再生
岡山県出身。同志社大学を卒業後、コンサルティング会社を経て、2011年にニューヨークへ。12年に「海外挑戦者の溜まり場」、14年に「J-KURU NY」、16年から「ジャパンフェス」、同じく16年から不動産、イベント主催・代行、飲食店、留学プログラムを手掛ける「Jforward」を設立。j-fo.com
対談者:コンドル
名古屋で働いてたときの取引先。ドラゴンが会社をやめるってなった頃から飲みに行ったりして仲良くなる。赤から鍋とテレビ塔が大好き。ニューヨークに行ってからも時々話してて、一緒に「溜まり場」を創る事に。
22歳名もなきベンチャーへ
直感!
23歳入社一年目でリストラ危機
ちょうどオレが入社した2008年に
社員が200人から100人になった。
リーマンショックがあって
その影響を会社がもろうけて。
1年目が終わる頃いきなり、
1週間後にリストラ候補を発表します、
みたいになった
社員は入社時の半分になるし、
オフィスの同期はおれ一人になるし、
会社を訴えるって人も出てくるし
まぁいろいろあったよ。
会社の経営は大変だって
ほんと肌で感じた。
それに人生は急に道がなくなる、
自分の力つけるしかねぇなって
強く思ったよね。
25歳ニューヨークの会社に内定。スカイプ面接。
日本も北朝鮮と一緒だなって
ずっと思ってた。
日本にいても日本のことなんて
ぜってーわかんねぇだろうなって。
会社に残ったあと
自分のできること全てやったけど
どうにもならんくて。
それで6月に辞表を出して、
8月にやめた。もう世界に出ようと。
― いきなりニューヨークで就職?
初めは有給インターンだよね。
そもそも金がなかったから、
語学留学って選択肢はもてなかった。
そんなとき有給インターンを知って、
これしかない!って。
最初はやりたいことあった
ロサンゼルスと迷ったんだけどね。
ニューヨークには全く興味のない
不動産しかなかったから。
でも最後は直感でニューヨークを選んだ。
なんか想像したらわくわくして。
あったで。 スカイプ面接が!
英語と日本語の半分半分だったんだけど、
英語全然できなかったからびびった。
トーイク400くらいだったし。
だから英語版プロフィール
作ってもう丸暗記だよね。
最後はレアジョブ使って、予行演習してなんとか突破。
それが意外とおもろかったんよ!
ニューヨークに飛び込んでくる人が
お客さんなわけで、
そっからおもろい友達とかも
けっこうできたし。
仕事する相手も
ユダヤ人からエチオピア人まで
いろんな人がいて、
悪い奴もいて超鍛えられた。
まぁ最初は英語できなかったから
電話かかってきても全部「Okay」っていって
切ってたけどね。
今考えると、
当時ロスでやりたいって思ってたことは、
超小っちゃいよね。
「日本の常識」という小さい枠組みの中で、
考えたものでしかなかった。
今は自分が開放されてきて、もっとでかくて 、
本当に自分がやりたいことに気づけた。
日本のこと超好きになったしね。
やっぱアタマで考えた選択肢なんて
たいしたことねぇなー
直感がすべてやなーって
感じた一つのいい経験になったね
25歳地下室、窓無し、4畳半暮らし
初めニューヨーク来た時は、
給料月に1500㌦だったから。
こんな物価の高い街で
生きていくにはとにかく
一番安い家に住むしかない!って思って。
そしたら280㌦の物件があって
もうそこだけ見てソッコー決めたよ。
地下室で窓ないから、
晴れか雨かもわからんし、
朝か夜かもわからんかった。
しかも風呂とトイレは 4人で共同使用だからね。
こっちの友達にもよく言われるけど、
それしか選択肢がなかったからね。
ねずみとかゴキブリとか出たけど、
住んでて嫌って思った事は
一回もなかったで。
地下って夏は涼しくて、 冬は暖かい。
だからエアコンもヒーターも一切いらんからな。
まぁ不動産の仕事してるけど、
いまだにあそこより安い物件は見た事無い!
さすがプリズンハウス!
25歳震災直後、世界の応援メッセージを集める。
東日本大震災の直後、
その映像をパソコンでみてたら
なんか超泣けてきて。
何かしたいって体が動いた。
被災地の人から感想を頂いたのはもちろん、
「ビデオを見て俺も何か行動を
起こそうと思いました」
といったコメントをもらって
本当にやってよかったと思った。
何より結果的に自分自身が
たくさんのことを学べた。
ビデオを創ったのも、
一眼レフで人の写真をとったのも。
Youtubeつかったのも
すべて初めてだったけど、
想いがあれば人に届くんだって
完璧かどうかより、想いの方がが大事なんだなって。
それに結果的に9万人の人に届いたり、
テレビ局や渋谷の大画面に使われたんだけど、
それは全て身近な友達のおかげだった。
このビデオはTwitterとFacebookに
しか出してなかったから
みんなに届けてくれたのは周りの友人たちだからね。
やっぱり友達が一番大事だなって
どこいっても身近な人達のことを
絶対忘れちゃいけない、
って再認識させてもらったよね。
25歳ビザ剥奪されアメリカ強制退国
あれはまじあせった!
「えっまじか」って感じだった。
いきなりビザ発行してる団体から、
「あなたはルール違反したから、
10日以内にアメリカから出てください」
って英語でメールきて。
完全成果報酬の会社に
転職しようとして失敗した。
エージェントからは
オッケーって言われてたんだけどな。
やられたって感じだった。
「ふざけんな、もう来月のヤンキース対マリナーズ戦のチケット買ってんだぞ」
って思って交渉しまくったけど、 ダメで。
まぁしゃないなって思って海いって
そこでボーッと考えた。
そしたらオーストラリア、アルゼンチン、 アフリカ、
世界一週とかいろんな道が見えてきて。
めっちゃわくわくしてきて、
とりあえず佐川急便かドカタで金ためて、
次はオーストラリアって決めた。
― でも行かなかったんだ。
そう。
ニューヨークでおれ何もやりきってねぇよな!
ってふと思う瞬間があって。ただの逃げじゃん!って。
そっからはなんとか
ニューヨークで生き残ることだけを考えた。
強制帰国まであと5日しかなかったけどね
転職しようと思ってた会社の社長に
給料いらないから働かせてくれっていって。
絶対成果出すんで、
それで雇いたいと思ったら
就労ビザをくださいって。
それから日本に一回出されて
すぐ観光ビザとして戻ってきた。
その後、なんとか認めてもらえて、
ビザもらったよ。
― ビジネスではドラゴンって名前使ってるんでしょ?
そう。 Tatsuyaって発音しにくいらしく、
何度も聞かれるのがめんどくさかった。
だからイングリッシュネームつけよう
と思ったんだけど、
AndyとかTylerとかにしても、
顔は日本人だしダサイじゃん。
だったらイングリッシュネームじゃなく、
ワールドネームつけたろって思って
ドラゴンにした。
そしたらDragonって発音の方むずかしくて、
Tatsuyaより苦労してるけどね。w
でもインパクト強いから 外国人もみんな
「その名前クール!」 っていってくれるよ!
26歳借金する
― 超貧乏じゃんw
毎日99セントビザばっか食ってたなー。
たまに奮発して辛ラーメンみたいな。
休日なんて、 食に金使うのもったいないから、
一日中寝たろって思って、
ある日、水も食べ物も何もとらず、
一日中寝てすごしたらすぐ口内炎できたよ。
あの時はまじサバイバルしてた。
― なんでそんな金なかったん?
個人事業主になってから
収入は3倍くらいになったんだけど
予期せぬ出費が重なって。
ビザ申請するために弁護士やとったり、
確定申告したり、そんな時に限って、
パソコンを酔っぱらってカバンごとなくしたりして。
― つらくなかった?
つらいって思ったことは ないけど
とにかくきつかったね。
BIOGRAPHY
- 00歳岡山県総社市に生まれる
- 13歳中学1年、サッカー部創部、キャプテン
- 15歳右膝前十字じん帯断裂。サッカー人生終了
- 17歳高3で文系にチェンジしたため受験失敗
- 18歳同志社経済学部入学。麻雀、酒に溺れる
- 22歳名もなきベンチャーへ
- 23歳入社1年目でリストラ危機
- 25歳辞表提出
- 25歳ニューヨークの会社に内定
- 25歳一人で富士山登頂。ハワイ一人旅
- 25歳ニューヨークへ。地下室、窓無し、4畳半暮し
- 25歳震災。勝手に元気玉つくる
- 25歳ビザ剥奪されアメリカ強制退国
- 25歳観光ビザでニューヨークに舞い戻る
- 26歳個人事業主としてビザゲット
- 26歳借金する
- 26歳勝手に「LIveCollection」公開
- 27歳ジムに週5で通い出し人生初の70kg越え
- 27歳仲間と「挑戦者の溜まり場」を公開
- 28歳仲間とJ-kuru org始める
- 29歳仲間とWolf NYC Inc 始める
- 30歳仲間とAppare Japan Inc、JapanFes始める、世界20カ国周る
- 31歳Jforward Inc 創業
26歳LIveCollection公開
― 何でつくったの?
ニューヨーク来る直前、
ハワイに一人で2週間くらいいて、
そん時ゲストハウス生活して
初めて外人にふれて。
そしたらカップルで
世界一周してる奴とか、
半年バイトして半年世界旅行する奴とか、
そんな生き方ありか!
みたいな生き方めっちゃあって。
じゃぁいろんな生き方、
もっともっと日本に伝えたいな、
って思ったのが始め。
自分自身、
何回も目の前の道がなくなった経験あって
その度に自分で新しい選択肢見つけて
なんとかしてきたから、
いろんな選択肢を知る事で
希望ってみえるなって思ってたし。
これは絶対やった方がいい、
やりたい!って。
― やってみてどうだった?
勝手につくって
勝手に公開したんだけど、
日本からはるばる高校生とか
会いに来てくれたり、
たくさんメッセージももらって
やってよかったなって素直に思った。
スキルなくても全くの素人でも
本気の想いは届く!って確信した。
あれがあったからこそ
いまこうやって仲間と溜まり場
創りにも入れたし。
一人でもやるぜ、って気持ちが
一番大事なんだと思うよ。
27歳挑戦者の溜まり場づくりに入る
― これ、何がしたいん?
日本人が世界中で大暴れする
きっかけをつくりたい。
日本を出る前から
日本はこれから何を目指すべきかなって
ずっと考えて。
日本は経済力2位まできたけど、
増え続ける自殺率、 幸福指数の低い国民、
経済力=幸せ じゃないよなって
文化とか歴史とか
日本に対する尊敬はあるけど
日本人ははっきりいってなめられてるって
こっちきて感じて、超くやしいし。
じゃぁ何を目指せばええんやろうって
― 答え見えたん?
わからんのよ。w
でもオレはニューヨークは
カッコいいと思った。
ぶっちゃけ毎日の生活に
必死な奴がほとんどだけど
みんなキラキラしてるよね。
世界中から野望が集まってきて
みんなそういう人を応援する空気だよね
おれは誰にでもその人にしかできないこと
その人がいるべき分野、場所があると思ってて。
そこへ日本人ひとりひとりが
純粋に突っ込むことができたら
世界中のあらゆる分野
音楽、政治、アート、映画、ビジネス、
とかで大暴れできたら
日本人のイメージは絶対かわる。
何より好きなことおもっくそやってる方が
みんな輝けて幸せにきまってる
そんな起爆剤を創りたい。
野望『日本人再生』
贈る言葉 『今年世界でちゃおうぜ!』
― 世界に飛び出そうか迷っている人がいたらなんて言う?
世界にでた自分を想像してわくわくするんなら絶対いったほうがいいよ!
周りは、「なんで海外でたいの?」「自分探ししても見つからないよ」とかいってくるかもしれんけどそんな無視ですよ、無視。
「やりたい」がなくても「行きたい」場所があれば行けばいい。大事なのは「〜たい」に、正直に動くこと。そしたら勝手にやり”たい”こととか一緒に”いたい”人とか面白いくらいつながっていくもん。
溜まり場づくりだってニューヨークこなかったらできなかったし。ムービー創ってそれが9万人に届くなんてニューヨークくるまで想像できるわけないし
大事なのは理由さがしじゃなくて、直感にしたがってすぐ動く事だと思います。俺もまだまだやりたいこと、行きたい場所が死ぬほどあります。世界をこの目でみたいからぐるぐる回ってきます。
動けない秀才、より、動けるバカ、の時代。あれこれ考える暇があったら、どんっとノリで動いちゃおう!今年から世界でちゃおうぜ!
後日談
力のなさに気付かされた3年間
2014-2016 年の3年間は色々と挑戦しました。日本ファンを増やすためJ-kuruという日本語を教えるグループを作ったり、「Newyork」「Brooklyn」と名のついた服ばかり着る アジア人を見て悲しくなり、外人に「Japan」「Tokyo」を着せるためだけにスカジャンを売り始めたり。世界を周る中で当たり前に国旗を掲げる国を見て悔しくなり、Japanfesというイベントで日本の国旗を12旗掲げ始めたり。
腸の葛藤を色々な形で表現してきた3年間。そこで気づいたのは俺には力がねえなと。一度ここはぐっと力を溜め次の5年に向けた力をつけねぇとな。そこで今年立ち上げたのが、jforwardです。日本人を世界へ出す、日本を先へ進める、この原点を心に刻み、力をつけようと思います。ギアセカンドです。