中堀 海都(Kaito Nakahori) - "静寂"を作曲する作曲家
東洋と西洋のミックスされた音楽で既存の価値観を変えていきたい
現代音楽作曲家。中学二年生よりバンドを始め、独学で音楽理論とピアノを習得。高校時代のカナダ生活を経て、日本の音大で現代音楽に出会う。後、二年間のサンフランシスコ音楽院在学中、東洋の伝統楽器と西洋のオーケストラをミックスするスタイルが評価され、国内外のメディアから注目を浴びている。 2014年より拠点をニューヨークに構え、作曲家として活動中。ジョーダンホール(ボストン)、マーキンホール(ニューヨーク)、サントリーホール(日本)、サラ•ラジオホール(ルーマニア)などの著名ホールや、世界各地の音楽祭、演奏会にて作品が演奏されており、ローマの日本文化会館で、英語での日本の音楽に関するスピーチも行った。
対談者:Dragon
tamaribaの新しいWEBデザイナー「マキシム」の紹介。ふつーの音楽家とは一風変わっている。自然や日本、歴史・社会といった大きな流れの中で、自分がすべきこと、大事にしたいことを常に考え、実践している表現者。穏やかだし、実績もの凄いのに偉ぶったところ全くないし、人間的にもめちゃめちゃいけてました!
16歳高校を中退して、バンドするためにカナダへ留学。
いつか海外で外国人とバンドをやりたいと思ってたんです。世界にいけばもっとクオリティの高いものに出会えると思ったし、出来ると思ってました。でも、そのためには英語話せるようにならなくちゃ行けなかったし、日本にいるままじゃそれって出来ないじゃないですか。
それで本当はアメリカに行こうと思ったんですけど、当時丁度9.11の影響があったせいでビザが下りにくいって聞いて。それでカナダは英語圏だしビザも取りやすいらしいし、カナダにも好きなバンドがたくさんいたので、それでカナダに決めました。
その時は、仲間と一緒にやれるのがただ楽しかったんですけど、メタルを突き詰めたい、とは思わなかったですね(笑)
14歳軽音楽部などでギター、ピアノを始める
中学2年生の時に軽音楽部に入ってからです。そこでバンドを始めてギターとか弾いたりしてて、普通にロックとかをやってたんですよ。それですぐ曲とかも作るようになって、なんとなく将来は作曲家になるって思いましたね。
そうですね、なんか浮かんで来たんです。僕は音楽の知識とか全然ないし、譜面とかも書けなかったんで、それで音楽の勉強ちゃんとしようと思って、記譜の勉強したり、ピアノ練習したりし始めました。
最初は全然でしたよ。とりあえず、全然弾けないのに坂本龍一の譜面とか買って来て、毎日毎日やってたら少しずつ弾けるようになってきて。そんな感じで高校入っても続けてたんですけど、もうその頃は漠然と音楽で飯食って行くって決めてたんです。で、学校でトラブって謹慎になった時に、そのまま退学してカナダに行きました。
そうですね。本当はあっちでバリバリ音楽やる気だったんですけどそれは言わないで、両親には「英語勉強して、ビジネスとか出来るようになりたい」とか言って納得してもらいました(笑)
19歳日本の音大にAO入試で合格。現代音楽に出会う。
きっかけは大学ですね。もっと音楽のこと勉強して、バンドしたい、って思ってたんです。それで音大に行きたいって思ったんですけど、とにかく受験もさっさと終わらせてバンドやりたくて。
そしたら、どうやらAO入試ってものがあるらしい、それに受かれば秋には受験が終わるらしいってことを聞いて。それで自分が今まで作った曲を持って面接を受けに行ったんです。
そこで先生達に曲を聞いてもらったんですけど、独学で基礎も何もなかったから、多分あっちも聞いてびっくりしたんでしょうね。「君、独学?」って聞かれて「はい」って答えたら「すごいね」って言ってもらえて、そのまま合格しました。で、その時面接してくれた先生に後々すごくお世話になって、その先生の影響で現代音楽に触れるようになったんです。
そこから、作曲家・武満徹さんの音楽を教えてもらって、その音楽を聴いた時に衝撃を受けたんです。自分がやるべきはこれだ!って確信しました。武満さんは96年に亡くなられてしまったんですが、世界的に有名な素晴らしい作曲家で、彼が最初にその評価を得たのがここ、ニューヨークだったんです。
24歳サンフランシスコからニューヨークに拠点を移す
そうですね。日本は本当にレベルの高いアーティストが多いと思いますけどアーティストにとってはなかなか芽が出にくい環境なんですよね、もったいないですね。
実際色んな人にヨーロッパに行く事を薦められたんです。ただ、日本もそうですが、伝統のある国々ってその国の「らしさ」みたいなのを求めるんですよね。僕がもしヨーロッパに行ってたら、自分のアイデンティティが追求出来なくなっていたと思います。
そうなんですよ。ニューヨークは特にそうですが、アメリカって自由の国って言ってる手前、自由じゃないといけない、みたいな空気があるからとてもやりやすいんですよね。アイデンティティを追求する自由がある、素直になれる街なんです。
野望既存の西洋の価値観ではないものを、西洋に呈示していきたい
先の武満徹さんって、音楽の世界ではタブー視されている「伝統楽器とオーケストラをミックス」した音楽を作ったんです。November Stepsという、尺八と琵琶とオーケストラをミックスした音楽なんですが、それがかなり賛否両論になったんです。そしてその後また、そういう音楽を作ろうという人がいなくなってしまったんです。
でも、僕はそれこそが自分のやるべきことだと思ってるんです。
僕には中国と日本の血が流れているし、そういうバックグラウンドがあるからこそ日本や中国の伝統楽器・音楽について勉強してきました。
例えば尺八と二胡(中国の伝統楽器)とオーケストラと言ったような、東洋と西洋のミックスされた音楽を、既存の西洋的価値観をベースにした音楽に対して呈示して行きたいんです。英語で作曲は”Composition”ですが、本来それは構築を意味しますよね。西洋の音楽って本当にその通り、構築されてるんです。綿密に計算されて作られてる。それが現代音楽の世界ではベースの価値観になってるんです。
そこを変えて行きたいと思っています。他の分野でも同じで、東洋人は、もっと自分達の文化をしっかりと西洋に呈示して行くべきだと思います。
所詮流行でしかないんですよね。ご飯の上に生魚乗せるだけの簡単なものが寿司じゃない、ハリウッド映画で描かれるようアメリカナイズされたニンジャ・ゲイシャが本当の文化じゃない。本当にそのバックグラウンドを持っている僕ら東洋人が、ちゃんとその本質を伝えて行く、そういうことを僕はやりたいです。
生き方人間らしくこれからは生きていきたい
作曲をしながら色々な土地を訪れてきましたし、そうやって色んな世界を見ていきたいですね。夢とかやりたい事とかはたくさんありますが、漠然と人間らしくこれからは生きていきたいともふと思うんです。
世の中はどんどんアナログからデジタルへと変化していて、音楽も生の音や楽器の音などから電子音楽が主流になりつつあります。でも僕はやはり森や海で耳を澄ませる事を人間としてやめてしまっては勿体ないと思いますし、結局はそういうアナログな部分から離れられないとも思うんです。
だからナチュラルに物事を考えたり、ないしは考えずに感じるだけでもいいのかもしれません。そうやって自分自身ライフスタイルを模索していきたいとは思いますね。
そういう意味では、こういう考えを持てるくらいに昔に比べて、世の中も自由になってきたなぁ、と思います。
贈る言葉本気で変わりたいという気持ちで世界に出て行く
”世界には色々な価値観がある”
それは僕がカナダの高校に行って目の当たりにしたことでした。文化、食べ物、宗教、肌の色、そういったものが違う人達が共に生きているのは、日本の環境とは全く違いました。人々がそれぞれの個性を尊重する、ないしは尊重しなければいけないという雰囲気があります。
そして矛盾した話に聞こえるかもしれませんが、海外に出ることで感じたものは日本が持っている素晴らしさです。どこの国にいっても日本ほど清潔で、便利で、繊細なサービスの行き届いた国はないと実感してきました。食べ物も美味しいですし、僕自身仕事で帰る機会をいつも楽しみにしています。
でも、日本には年功序列、権威主義という言葉があるように、まだまだ実力や能力以外の要素で評価がなされている場合が多く、若い人たちにとっては自分に正直に夢を目指すのが難しいということもあると思います。僕の場合は日本人として日本を出ることで世界を知り、視野を広げ、日本という国の良さ、悪さも分かるようになりました。
もし勇気を持って自分の明確な目標に突き進む意思があるのならば、海外の環境に身を置く事は日本人にとって必要なことだと思います。またその際は固定概念、日本での常識というものを捨て、色々な価値観を受け入れていかなければなりません。
本気で変わりたいという気持ちで日本人が世界に出て行くことで、それが近い将来日本にも還元されて国際的になっていくのではないかと期待しています。
後日談
27歳考え方が変わった
自分のインタビューを読み返すと考え方とか結構変わったなって思いますね。例えばインタビューではヨーロッパはすでに考え方が確立されすぎてて自分のアイデンティティを確立するのが難しい、それに比べニューヨークは自由でいいみたいに書いてたと思うんですけど、今は少し変わりました。
今はもっとリミットしないといけないなって思ってます。ニューヨークは確かに自由でなんでもやっちゃえるじゃないですか。でもそれってすべてが浅くなっちゃったりするんですよね。それに比べ最近ヨーロッパで仕事をする中で思うのは、彼らはすごく追求してるんですね。もちろん自由度があるかないかで言うと制限されてるんですが、その分深く追求してる。これからはそれを自分も意識しなきゃなって今は思っています。
もちろんこれってバランスが大事で、自由にクリエイティブにやってたからこそ、反動で今からリミットをかけないとなと思ってるわけで、またリミットを意識して数年経れば、もっとクリエイティブにやらないとって思う時期が来ると思うんですけど。
BIOGRAPHY
- 00歳千葉県浦安市に生まれる
- 01歳日本と中国を行き来し始める
- 03歳家族の前で自分の作った童謡を歌う
- 03歳世界の電車の図鑑を丸暗記
- 03歳塾へ通い始める、受験戦争の道へ
- 06歳都内の私立の小学校に入学
- 10歳勉強に集中するため単身都内に住み始める
- 12歳海城中学校に入学
- 14歳軽音楽部などでギター、ピアノを始める
- 14歳作曲に没頭し成績が落ちる
- 15歳海城高校に進学、一学期で中退
- 15歳カナダの公立高校に編入
- 16歳ジャズやヘヴィメタのバンドに参加
- 17歳日本に帰国。AO入試で早々に音大進学を決める
- 18歳前衛、現代音楽や武満徹へ強い興味を抱く
- 20歳劇団の音楽を担当する
- 21歳作曲コンクールに入選、受賞するようになる
- 22歳奨学金受給生としてサンフランシスコ音楽院へ
- 23歳東京で世界的ピアニスト高橋アキに作品を献呈
- 24歳ローマ日本文化会館でのシンポジウムでスピーチ
- 24歳ルーマニア最大のホールで作品の世界初演
- 24歳中国の複数の著名メディアに取り上げられる
- 24歳サンフランシスコからニューヨークに拠点を移す
- 25歳国際連合本部で自作品の個展演奏会を開く
- 25歳クヘミア・アンサンブルのコンポーザー・イン・レジデンスに就任。南米ツアーやアルバム発表を行う
- 26歳音楽を担当した映画「海の彼方」が台北映画賞などの映画祭にノミネートされる
- 26歳ニューヨークの作曲賞、ブライアン・M・イスラエル賞を受賞